つみっきーの日記

目の前の出来事に向き合い、得た視点や感じた想いを日々積み上げていく

【感動】流しに置いたコップ1つで全てが手遅れになる前に

ある記事に感動した。

 

m.huffpost.com


自分や周りの人にとって、決して無関係ではないと感じた。

 

この記事は、見てもらうと分かるが、

Webの文章としては長い方に分類されると思う。

 

それでも、この文章をきっかけに何も顧みず、何も学ぼうとしない、

もはや手遅れではないかという人も多いのではないかと危惧している。

 

とはいえ、かくいう自分も、

その「手遅れ」集団にいつ入ってしまうか分からないし、

入ってからではまさに「手遅れ」。

 

自分の学びを深めて、日々の生活に生かすためにも、

あらすじと、特に印象に残った記述を紹介し、

最後に自分の願いに触れたいと思う。

 

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あらすじ

筆者は日頃、使ったコップをすぐに洗わず流しに置いていた。

それは筆者にとっては理屈が通っていたし、些細なことだった。

しかし、筆者の元妻にとっては大切なことだった。

筆者の行為によって自分が愛されていない・尊重されていないという思いを募らせた彼女は、筆者のもとを去った。

 

相手が大切にしていることを尊重してあげられないことが、

相手を傷つけ悲しめ、ひいては相手そのものを愛していない・尊重していないと感じさせてしまうのだということを、

世の男性が受け入れる時は来るのだろうか。

 

 

コップは、ただのコップではなくなる

 

そして突然、コップはただのコップではなくなる。 それは愛と自己犠牲のシンボルとなる。

 

なぜそんなにコップのことを気にするのかを理解する必要はない。 それが彼女にとって大切だということを理解し、尊重すればいいのだ。

「なんでそんな些細なことで目くじらを立てる?」

と全く理解できない男性は多いかもしれない。

  • 脱いだ服はきちんと片付ける
  • トイレの蓋は閉める
  • 玄関の靴は揃える

その「なんで」を知る必要は、実はまったくなかった。

 

離婚したいと思うのは、夫が自分を尊敬しなかったり、感謝しなかったりしていると感じるからだ。そのうち愛されていないと感じるようになり、夫をパートナーとして頼りにできなくなる。夫を信用できないから、一緒にいても安心できない。だから夫と別れて、安全で満足できる新しい環境を求めるようになる。

 

理解することと尊重すること

 

ほとんどの男性はなぜ妻が喧嘩をしているのかわかっていない。妻は、コップのために闘っているのではなく、感謝され、尊敬され、認められ、そして愛されるために闘っているのだ。

 

「言ってくれれば分かるよ」という男性にとって、大きな驚きだっただろう。

なぜなら、まず第一に、コップ自体が重要というわけではなかったから。

第二に、そもそも言葉にして言ってくれないから。

 

しかし残念ながら、男性は自分が理解できないことを何度言われても「理解」できないのだ。それに立場が反対になっても自分が傷付かないので、妻が傷付くとは想像もしないのだ。僕の気に入らないことを君がしても、僕は腹を立てたりはしない。だから、まるで妻が自ら選んで傷ついているかのように、男性は考える。

 

さらに、言葉にして言われたとしても、それを理解できないときた。

そして、立場が反対になっても自分が傷つかない。

 

古く論語から伝わる、

「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」(自分がされて嫌なことを、人にしないように)の教えは、ここでは役に立たないのだろうか。

 

理解できなくても、相手を尊重することは、できないのだろうか。

 

母親ではなく、パートナーとして

 

妻は僕の母親にはなりたくなかったのだ。

 

そうではなくパートナーでありたかった。頭脳や学習能力を使って、生活や家庭を上手に管理してほしいと思っていた。 何をすべきかを自分で考え、工夫してほしかったのだ。

 

パートナーとして、相手が大事にするものを把握し(理解できなくとも)、

それに沿う形で生活を営むのがよいのだろう。

 

これはもちろん、男性・女性の両方にあてはまることだと思う。

 

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まとめ

 

流しに置かれたコップを通して、冒頭の記事の筆者は、完全に理解し合うことはできないという前提の上で、相手を思いやり、尊重し合うことの大切さを学んだ。

 

この前提を忘れて、ビジネスの場ならいざ知らず、プライベートの場においても、自分の非(この場合は相手に、自分が尊重されていないと思わせるような行動)を認めず、自分の意見に相手を従わせることに心血を注ぐ人、特に男性は少なくないと思う。

 

そして、それが自分の想像しない形で相手を傷つけているのだとしたら。気づいたときにはもう遅いのかもしれない。


どうか、目に届くべき人の目に届き、心に届く人の心に届いて欲しいと思う。