つみっきーの日記

目の前の出来事に向き合い、得た視点や感じた想いを日々積み上げていく

世界一受けたい授業 村上春樹の深い絵本『おおきな木』を読みくらべた感想

2月6日放送の世界一受けたい授業では、
子供に読み聞かせたい絵本が紹介されていました。
 
その中でも『おおきな木』という絵本が気になったので、
実際に読んでみた感想とまとめを書きたいと思います。
 
 

村上春樹が訳した絵本『おおきな木』とは?

番組で「賛否両論の結末」がある絵本と紹介されていた、『おおきな木』。
 
 
おおきなりんごの木が少年(のちに成人、老人)に文字通り「与え続ける」物語。
 
少年が大きくなるにつれて、欲しがるものがどんどん大きくなりますが、
それでも木は、少年の望むものを与え続け、ついには・・・。
 
果たして本当はどのような気持ちだったのでしょうか。
 
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読みくらべ:原文、本田訳、村上訳

村上春樹の訳が、比較的最近出たようですね。
 
その村上春樹訳をとりあえず読んでみるとして、
せっかくなので、本田錦一郎訳も読んでみるとして、
せっかくなので、Silversteinの原文も読んでみましょう。
 

表紙

表紙は、基本的には文字の違いだけでしょうか。
おっと裏表紙には、原作だけ本人の写真がでっかく載ってるぜ!
 

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文体

本田訳がひらがな「のみ」で書かれているのに対して、
村上訳では漢字も混ざっています。
成人にはひらがな連続は逆に読みづらい・・・笑
 

訳から受ける印象

個人差はもちろんあると思いますが、具体例を見つつ。
 
例えば、
原文「and make them into crowns and play king of the forest」
本田訳「かんむり こしらえて もりの おうさま きどり。」
村上訳「はっぱで かんむりをつくり 森の王さまになりました。」
「◯◯ごっこをした」というニュアンスが本田訳の方がよく出ている気がしました。
 
 
もう一つくらい例を。
原文「And the tree was often alone.」
本田訳「きは たいてい ひとりぼっち」
村上訳「木がひとりぼっちになることがおおくなります。」

 

例を挙げてはみましたが、
ここでは、個別の訳の巧拙を問題にしたいわけではありません。
 
「人の心を映す自然の鏡」(村上訳あとがき)である物語を読むときに、
よりすんなりと読めるかどうかには、訳によって随分差があるということが、
自分にとってなかなか面白い発見でした。
 
 

扱われるテーマ

比較というわけではありませんが・・・
 
「すんなり読めなくても、もやもやが残っても構わないから何度も読み返して欲しい」
(村上訳あとがき趣旨)という村上は、
 
「人の心を本当に打つのは多くの場合、言葉ではうまく説明できないものごとなのです。」(村上訳あとがき)と言っています。
 
  • 与え続ける木は、本当に幸せだったのか?
  • 「『与える』行為に、犠牲の行為を見てはならない」(本田訳あとがき)のかどうか?
 
こうした根本的な問題が、この物語の根底に流れているからこそ、
 
漕ぎ出して遠くに行きたいという少年に、
おおきな木がついには自分の幹(!)を差し出した後の状況を、
 
原作者と翻訳者がどう表現するか、そしてそれを読者がどう読み取るか、
三者三様で興味深いのだと思います。
 
原文「And the tree was happy … but not really.」
本田訳「きは それで うれしかった・・・ だけど それは ほんとかな。」
村上訳「それで木はしあわせに・・・ なんてなれませんよね。」 
 

(番外編)木に彫られたハートマークの中

 こいつです。少年が木に掘ったやつ。
 

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書かれている内容は、
原文「M.E. & T.」「M.E. & Y.L.」
本田訳「たろうとき」「たろうとはなこ」(本田)
村上訳「ぼくと木」「ぼくとあのこ」(村上)
  • M.E.: me (自分)? 
  • Y.L.: Young Lady(年齢関わらず女性全般に使われる)?
 
ここは村上の方が「うまい訳なのかな」と思いました。
 
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まとめ

本田訳あとがきで引用されていた、
エーリッヒ・フロム『愛するということ』の
「愛とは第一に与えることであって、受けることではない」。
 
この物語では、与える側の「おおきな木」と、受ける側の「少年」がいましたが、
自分はどちらの側にいるのだろうと考えされられました。
 
実は考えるまでもなく、自分は受ける側の人間であることがこれまで多かったのですが、
 
「これから与える側としての役割が期待される時、無条件の喜びを果たして感じることができるのだろうか?」
「そもそも喜びを期待するということは、自分が何かを受け取りたいと思っていることと同じではないのか?」
 
など、もやもやが止まりません。
 
皆さんはこの絵本を読んで、どんなことを考えましたか?